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不二高社長のブログ
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「星に帰った少女」の話ばかり続きます。
それには少し因縁じみたエピソードがあります。
実は、「星に帰った少女」の舞台である八幡神社の
秋の祭典で、私が祭典委員長に指名されたのです。
末吉暁子が亡くなったこの年にです。
(祭典委員長に指名されたのは、末吉暁子が
 存命であった4月です。)
神社の祭祀ですから、辞退を伺ったのですが、
50日を過ぎた秋の祭典のこと、と
既に祭典準備が動き始めていること、
一番は、末吉暁子との因縁でしょうね。
この八幡神社が、彼女が児童文学者協会新人賞他多数の賞を
授け世界的な児童文学者として飛躍した舞台、
すなはち、パワースポットの場所として注目されることで、
御神璽も好意的に見てくれるだろうと
かってに解釈しています。
という訳で、八幡神社を見直しています。
先日、八幡神社で写真を撮っていたら、
「星に帰った少女」の重要な情景である、
バス停に降りたシーンを、子の目で見ることが出来ました。





バス停は、間門八幡に変わり、
東海バスは富士急行でしたが、
「星に帰った少女」の本の中に
吸い込まれていくような気がしました。

「星に帰った少女」の杏子の過去の
悲しい話の種は何だったのだろうか、
と、彼女の少女期を振り返ってみました。
彼女の両親は離婚もしていないし、
母親は96歳の天寿を全うしたし・・・。
ふと、小学校の記憶が甦りました。
それは、彼女が通った、片浜小学校の
校長室に架けてある一つの絵です。

小学生時代の彼女の夏休みは、
宿題を終わらせると、沼津の海(片浜海岸)で、
近所の児童達と午前中を泳いで過ごす事
でした。全員、真っ黒に日焼けしていました。
しかし、この片浜の海は、波打ち際から数メートルで
もう背が立たない位急深です。おまけに、
八月の土用を過ぎると土用波と云って、逆まきうねる
大波が打ち寄せる海岸に変貌します。

校長室の絵は、土用波に押し流されている
生徒と助けようとした先生の姿です。
全員が溺れて亡くなった事を
説明受け、私もショックを受けた事を
記憶にいつまでも残っています。

末吉暁子は、きっと、この片浜の荒々しい海と
校長室の絵を重ね合わせて、物語の
悲しい場面を構成したのだろうと想像してみました。


末吉暁子が遊んだ片浜海岸(波の穏やかな日)

 
遠く伊豆半島を観ることが出来ます。
片浜海岸は、富士川から流れ着いた玉石の
海岸です。
小学生の彼女は、この海岸で甲羅焼きをしていました。
時代が変り、現在は遊泳禁止です。


片浜海岸からも富士山が見えます。
(台風の後、塩害で枯れた松が少し痛々しいです)




片浜海岸から、お正月(1月1日前後数日間)だけ
駿河湾の入り口に沈む夕陽が見られます。
その時、世界が、時にバラ色に、時に真っ赤に変ります。
一度ご覧になってください。
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「星に帰った少女」を読み返し、主人公マミ子が杏子と出会った
八幡神社に行って来ました。
「そう、正面に鳥居があって、両わきにはマミ子の背たけより
やや低い石がきがあり、鳥居の奥に石だたみの参道がお堂まで
つづいていた。」
この八幡神社は、物語の舞台そのままに存在していました。
石たたみだけがコンクリートに変ってしまっていましたが・・・。
今となっては、元に戻らないけれど、
「星に帰った少女」の舞台と分かっていれば
そのまま残しておきたかった・・・・


 








 
 
八幡神社の沿革略記の看板がありました。
それによると、古代祭祀の祠や社の全村の
氏神を大きく慶長9年9月に勧請創建された、
とあります。



「従是東」の石碑、地元の古老に聞くと、
建立の時は「従是東下馬」とあったともいわれています。
八幡神社の目の前の道路は東海道です。
この地は、戦国時代、武田氏と北条氏が激闘を交した場所に
あり、沼津城の西端にあたる要所ですから、
石碑の由来も頷けます。
八幡神社の資料が少ないのも、度重なる戦火で焼失したとも
考えられますが、その度に再建され続けてきのは
東海道の要所の施設としての役割と
氏子達、住民の絆としての場所であったと考えられます。  

 
故末吉暁子の新人賞作「星に帰った少女」の主人公マミ子が杏子に
出あった『八幡神社』で、6月26日(日)同じ町内の山神社との
合祀祭が執り行われました。
私も氏子の組長として一生に2度無いかもしれない
神事に立ち会うことが出来ました。
又、今年の八幡神社秋の祭典の祭典委員長を引き受け
故末吉暁子との因縁を感じています。

 

故人は、横浜から父親の郷里である沼津市に
帰郷し3歳から8歳位まで、この八幡神社の2軒隣の大家
に仮住まいしていましたから、神社の境内を
家の庭のようにして育った のです。
8歳頃に、山神社の入り口向かいに木工所兼自宅を建てて
移転したので4歳年下の私は山神社の方が遊び場でした。
身内の自慢のようで、あまり彼女の功績を口にして
こなかったので、地元では知る人こそ知るような童話作家
のような感じで、ちょっと悔いています。
地域の衰退、地元神社も時代の波にもまれて氏子が
少なくなって維持が困難になり初めている現在、
故末吉暁子の原点であり、あのファンタジーが生まれた
「八幡神社」や沼津の海、牛伏山(物語では午伏山)、
沼津駅や駅前商店街の風景、東海バス(実名)など
地域活性化が全て含まれていたのだと、読み返して
「星に帰った少女」の内容に
喪失感を味わっています。
読者の皆様、沼津市民の皆様、是非「間門八幡神社」に
四季、特に銀杏が黄金色に色づく秋から冬に
児童文学の世界を感じてに訪れてみては如何ですか。
マミ子と杏子の情景、SFのタイムマシーンのバス
(実は、このルートは富士急行)に乗ってみて下さい。
乗降のバス停は、物語といっしょの「間門八幡」です。
馬伏山(午伏山)ルートは東海バスです。
すぐ隣は、沼津御用邸記念公園があります。
沼津が生んだ文豪、芹澤光次郎や井上靖、歌人の若山牧水
が有名ですが、児童文学の大御所故末吉暁子も
実は凄い人なのです。

この彼女ゆかりの神社で
合祀の神事がが執り行われました。

山神社では遷座祭が執り行われ、神璽御神幸の行列をくんで
八幡神社へ遷座し、合祀祭が厳かに執り行われました。
その御神幸の行列は、あの伊勢神宮の遷宮と同じように
神璽奉戴の宮司を絹垣が持つ絹の白布で取囲み、
行障が持つ真榊で閉じて、先祓、前導を先頭に、
供奉員を従えて、旧東海道を行列しました。


山神社です。

 







山神社から御神幸の行列の出発です。

 











 


 

自宅からの富士山です。
「バス通りのゆく手、はるかむこうの建物の屋根の上に、
おおいかぶさるように空を占領している三角形の山が
見えたのだ。頂上に白く雪をかぶったその山は、
まぎれもなく富士山だった。」
そう、「星に帰った少女」で
表現された富士山は、八幡神社の氏子達は
毎日見ることが出来るのです。




今、ツィッタ―やヤフーニュースが凄い事になっている
童話作家・末吉暁子さん逝くのニュースです。
末吉暁子は、沼津市の第2期燦燦大使です。
その後も、NHKEテレで「ざわざわ森のがんこちゃん」が
20年間も放映され続けています。
現在は、娘である理佐さんがプロデュースして
パート2が放映中です。
がんこちゃんで育った若者、がんこちゃんで子育てした
親たちからのお悔やみが発信され続けています。
沼津市立片浜小・中学校、県立沼津西高等学校出身
の生粋の沼津育ちです。
児童文学界の巨星がまさに墜ちました。
沼津の宝がまた一つ消えました。
末吉暁子の偉大さは地元ぬまづでもっと
理解されてもよかったのではないかな・・・
 
ありし日の末吉暁子。
隣は娘の理佐さんです。
来沼したときに宿泊に利用していた
ニューウェルサンピア沼津にて。
末吉暁子が童話作家と気付いていたのかな~
と思っています。フロントにも
何も思い出が残っているようすが
ありませんので。
こんなに凄い人が宿泊していたのかと
きっと残念に思って。。。。。
今日の新聞(朝刊)で既にご存知と思いますが
がんこちゃんの作家、末吉暁子(姉)が
5月28日逝去されました。
健康を崩し静養されていましたが、今年に入り
急速に病が進行し御主人、娘さんの看病のかいなく
昨日他界されました。近年、東日本大震災で被害を
被った東北の地に幾度となく出向き、子供達を
励まし続けていたようです。子供達に届けたい
と原稿が出来上がったものや執筆途中の様子を
伺い心残りがあったのではないかと、ちょっと早過ぎる
人生に私達も残念でなりません。
先日、営業で来訪した若い営業マンが、不二高の
エントランスに飾ってある「がんこちゃん」の人形を
見つけ、不思議に思い私に質問されました。
「ざわざわ森のがんこちゃん」の作家、末吉暁子は
私の姉なんですよ。
というと、「僕はがんこちゃんで育ちました。」
と、 納得された返事があり、末吉暁子の全国的な偉大さ
をさらに気付かされました。
今日の、新聞での訃報をご覧になり、近所の方々、友人、
親戚からお悔やみの電話が鳴り続けております。
姉の冥福をただただ祈るばかりです。
末吉暁子は旧姓髙島です。
父親が横浜の軍需工場に召集されていた時に生まれた
ので横浜生まれになっていますが、
3歳のときに終戦となり、父親の故郷である
沼津市に帰郷し、
片浜小・中学校から県立沼津西高等学校に進み、
青山学院女子短期退学英文科に進学しました。
まさに沼津育ちなのです。
思い出のアルバムを見させて戴きました。
小学生の頃、片浜海岸で近所の子供達と
朝から晩まで泳いでいた写真、
小学校や中学校での演芸発表会で
衣装をまとった役の活き活きとした姿、
青山学院でのゼミの仲間との写真
彼女の青春そのものが残っていました。
多くの同窓生の推薦で、
沼津市の燦々大使も受け、
地元でも多くの講演会を行って
活躍していました。
 
 
  

在りし日の「がんこちゃん」先生です。
猫大好きな彼女のリビングや書斎には
ねこのグッズがいっぱいです。
リビングにテーブルで見つけた
大事にしていた色紙です。

 


 
エントランスのがんこちゃんです。
題して『ぞくぞく村のがんこちゃん』

現在、NHKEテレで放映されたいる
がんこちゃんパート2は、愛娘の
理佐さんが作家として彼女の意志を
引き継いでいます。
がんこちゃんのモデルは理佐さんの
成長そのものでもあります。
がんこちゃんやぞくぞく村で育った
皆さん、ぜひ理佐さんを応援して
下さいね。
このブログを書きながら、末吉暁子と
いう一人の人間としての偉大さと
彼女との思い出のページを
めくっています・・・・・・。
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